悲愴な様式による3つの曲 作品15
意欲に燃える若き日のアルカンによる大規模な作品。彼の残した中で最も正統的なロマン派音楽と言えるかもしれない。この曲を書く上でアルカンは大それた試みを行っている。譜面には音符やタイなどの演奏に必要不可欠な情報のみを記し、テンポ標示、強弱の指示、スラーやスタッカートなどに至るまで、発想記号は何ひとつ書かなかったのである。すべては音符と標題によって表現しつくされているというわけだ。まるで、ロマン派音楽の真髄を既に自分は手中にしている、と宣言しているかのようである(もともと練習曲の性格を帯びた作品であり、演奏者にそれを読み取るスキルを求めた、ということでもあるのだろうが)。シューマンはそれを音楽が皮相的(悲愴ではなく!)な証拠と捉え、辛辣な批評を加えているが、しかしリストは実際に演奏した上で賛辞を惜しまなかった。
3曲とも、それぞれ目を引くアイディアにあふれている。1曲目「我を愛せよ」は創意を凝らした伴奏形や、クライマックスでリズムまで変わって登場する主題などにより、感情の波が大胆に表現されている。2曲目「風」は、延々と続く半音階による風の表現が極めて強い印象を残す。単純にも思える発想を突き詰めることで一種異様な表現にまで昇華してしまうという、アルカンの真骨頂が発揮された曲のひとつだろう。この曲だけ取り出して演奏されることも多く、一時アルカンはこの「風」の作曲家としてのみ知られていたほどだ。3曲目「死んだ女」は、グレゴリオ聖歌「怒りの日」の引用や鐘の音などによって、死の表現を追求した音楽。執拗に繰り返される鐘の描写は当時としては斬新なもので、ラヴェル『夜のガスパール』の「絞首台」に直接の影響を与えたと思われる。
これら3曲は実際にはひとつの音楽の3つの楽章と考えるべきで、それは「死んだ女」で前の2曲が断片的に引用されることからも明らかである。こうした循環形式の利用にアルカンは積極的で、そこに音楽表現の可能性と効果に対する独自の考え方を見て取ることができる。
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